革命国家が勝利に向かって前進する玉川上水のブログ

駿河南海軍工廠の後継。近現代史小説を中心に掲載。

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 野暮天が真珠湾に攻撃をかけ、戦争が始まりました。軍艦の皆さんには戦地へ出撃して頂きます。

 一方、奇襲をかけた日本海軍の側にも、困難な道が待ち受けていました。日本の優勢は長くは続かず、開戦からわずか半年で形勢は逆転してしまったからです。

 品不足と消耗が各国で相次ぎ、世界中の海軍に、「こうなれば今を楽しもう」という享楽的な気分が蔓延しました。戦前にはただ灰色で塗られていただけだった軍艦が、オシャレをして外出するようになり、「迷彩」と称して様々なファッションが作られ、流行を形成したのです。

 今日のヒストリーチャンネル(嘘)は、『軍艦の迷彩』!

 
(オープニングデモ)



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 ブログには利点が多いが、問題点も同時に孕んでいる。

 利点から述べていくと、まず、ブログは更新するのに比較的楽だということ。
 本文を考えるだけの手間で済む。余計な労力を必要としない。
 これは作者にとって非常に便利だし、私のようにホームページ製作のノウハウについて、素人同然の者であっても情報を発信出来る、間口の広さを意味する。
 誰でも簡単に、というわけだ。これがブログというものの最大の利点だろうと思う。
 私としては他の利点は、これに付随するものでしかない。

 問題点では、HTMLに出来て、ブログには出来ないことを考える。

 私は幾つかの小説をこのブログに書いてきたが、個人としてはこれを不満に思っている。
 つまり、いずれはHTMLに移植したい、という気持ちが下敷きにある。
 その理由の一として、HTMLならばその小説専用の装飾を最低限、施すことが出来るが、ブログではそれは出来ない。或いは非常にしにくい、ということがある。

 拙作「宝船」では、ご覧のようなつくりにしたわけだが、その完成度は別として、こうした画面演出(と云うと大袈裟ですが……)も、小説には重要なことであると思う。
 表紙やカバーイラストも小説の一部だと思うし、それがない小説は、やはり何処かが欠けているのではないか。

 また、ブログで書く小説は、ブログの中の一記事という扱いにしか過ぎないわけだから、小説本文とは無関係な情報が、同時に画面に表示される。
 小説としての装飾を加えたい一方で、関係のない装飾には、引っ込んでいて貰いたい。
 つまり体裁を整えたいのだが、それはブログでやるには不便なことだ。
 一作品ごとに一つのブログを用意するでもなければ、この点でブログはHTMLに及ばない。

 今までは、そうしたことは殆ど意識してこなかった私だが、最近は、そのようなことが兎角、気になる。
 想像するに、小説を書き起こすために必要なアイデアというものの、有限さを感じたからかもしれない。
 リサーチもせず思いつきで文章に起こし、その後は顧みない、という方針は、言ってみればアイデアの浪費なのだ。



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 私は架空戦記というと、なんとなく軽薄な感じがして嫌なんですが、兎も角戦争を舞台にした小説を十三歳の頃に書き始めて、それで現在は二一歳になったので、足掛け八年あまりそういう小説を書いているわけですが、まぁ何、八年などと言っても全然偉くも何にもない。実際、
「八年も書いているのに、なぜこんな素人仕事なのか」
 と言われると、本当にそうなので、返す言葉もないんですが、しかし、「どんな話を書いてもそう」という、なんとなく固まってきたものはある。

 私は、架空兵器や、未完に終わった兵器を出すのがあんまり好きじゃありません。
 まぁこれは流儀の違いなので、それを否定しようという気持ちはなく、読む分には構わないのだけれど、

  

 まぁ、単に苦手なんですね。兵器をデザインするのが。
 元々「オリジナルの新型機が登場して戦況が変化」という話は書かないし、ストーリー上新型機を出す必要が生じても、オリジナル機は出さずに、日本海軍なら「零戦⇒雷電⇒紫電改」のラインでやっちゃいます。
 あ、あと、当然ですけど、こういうのは出来ない人よりも出来る人のほうが偉いですよ。
(「やれないからやらない」より、「やれるけどやらない」ほうが強い)


 さて。
「安易にオリジナル機を連発しない」というのは、多分良いことだと思いますけど、そうすると、登場させる兵器を実在したものの中から探す必要があります。
 私は、そういうところで奇を衒わない主義なので、舞台設定と照らして、一番「それらしい」ものを選ぶ傾向にあります。

 日本なら零戦、ドイツはBf109、イギリスはスピットファイア、アメリカ機は年代によって違いますが、初期から中期はP-40、後期はP-51、というような、オーソドックスな兵器のイメージを選んでいます。
 というのも、そういう普通の兵器、何万機も作られたありふれた兵器を、ありのままに出すことで、作品中にだけ存在するフィクションな軍隊に、現実の存在のような「それらしさ」が加わるのではないか、と考えるからなんですね。

 兵器には、その国柄が表れるということを聞きます。
 しかし、私はそこからもう一歩踏み込んで、既存の兵器が持つキャラクター性みたいなものを大事にしたいと思うわけです。

 日本では零戦、と書きましたが、これがちょっと特殊な任務、たとえば長距離哨戒なんかをストーリー上で進行させるときは、また別の飛行機にしますし、「頭ひとつ抜きん出た強い戦闘機」を書くなら、海軍機なら紫電・紫電改、陸軍機なら疾風・五式戦あたりを使いたいですね。

 紫電改や疾風には、零戦や隼では代替できない、「強い戦闘機」というキャラクター性があると思います。
 紫電改や疾風が、現実に強いか弱いかは、この際問題ではなく、ただ、B-29を邀撃する主人公の機体が零戦や隼では、それを絵でイメージしたとき、やはりどうしても違和感がある。

 紫電改や疾風、せめて雷電あたりでないと、B-29とは戦えないのではないか。スクーターで東名高速道路を走るような、無理な絵になってしまう。

 小説において兵器は、それを操る人物の内面までも写す、その人物そのものの具象であると思います。
 キャラの性格を考えてその服装を考えるように、人物と機体、そして彼らが置かれている環境は、それぞれに共通して吊り合うものでなければ傍から見て、おかしい。戦争を扱う小説においては、それらしい兵器を、それらしくコーディネイトすることが、作者には求められると思う。



 

 その辺、重爆迎撃にも偵察にも輸送にも、対潜哨戒にも使えて、屠龍は本当に取り回しが良い、個性豊かな機体。
 単座戦闘機に見つかったら逃げるしかない卑屈さもすばらしい。





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 これは、およそどの国にも共通して言えることですが
「自分たちのこの国は、偉大な神々の重大な使命によって、地上に存在しているのだ」
 と信じたいものであるようで、以前は、そのような神勅を受けたと称する人々が、その大義名分の下に、国を治めていました。

 本邦ではこれは天皇家にあたるわけですが、天皇家は最初から日本列島を統治していたわけではなく、イザナギとイザナミが日本列島を作ってから長いあいだ、日本の国土は誰のものでもなく、いわば支配者不在の状態が続いていました。

 高天原に住んでいる天照大神(イザナギの娘で、太陽の神様)は、ある日そういう地上の状態を見て、
「これはよくない」
 と今更ですが、そう思ったので、孫のニニギノミコトをお屋敷に呼び
「大八州(日本)は、私の父上と母上が作った土地なので、その血筋にある者が治めるべきです。あなたとあなたの子孫で、地上の国を治めなさい」
 と命じて、地上に遣わしました。そのニニギの更に孫が、神武天皇になりました。

 日本神話の神々は、天津神・国津神という、二種類の神様に分けられます。
 天の高いところに吹く風のことを、天津風と言うように、天津神は天上に住む神です。
 一方国津神というのは、地上に住む、日本列島土着の神々のことを指します。

 高天原に住む天津神たちは、日本列島を作ったまではよかったのですが、その後ずっと忘れていて、あんまり長く放置していたので、時の経過とともに、地上にも神々が山ほど現れてしまったんですね。
(このように、放っておくと勝手に神様が生まれてしまう、というのが日本神話の特徴です。プラモは作りかけのまま放置せず、読まない本やゴミは片付けましょうね)
 それで天津神たちは、そのまま国津神に地上を支配されては都合がわるいので、天津神の中で最も貴い存在である天照大神の孫・ニニギを派遣して、地上の支配権を保とうとしたわけです。

 彼ら(天津神)にとっては、天上の高天原が本国で、地上の大八州はいわば海外領土ですから、出自も定かではない、わけのわからん国津神の連中には任せておけません。
 あくまでも高天原の属領たる大八州、として繋ぎとめるためには、イザナギ一門に連なる信用出来る者を総督として置く必要があり、その総督府として誕生したのが、つまり皇室でした。

 こうして日本は、土着の国津神と大陸からの渡来神を合わせた雑多な諸神の上に、高天原の天津神、しかも最高神である天照大神の血筋を帝として迎え、それによって、「神国日本」となります。
 今回強調したいのは、このように、そもそも日本(大八州)と高天原は、神話上では明確に区別される、まったく別個の国であった、というところです。

 大八州における宗教的(ということは古代においては政治的)最高責任者は、天皇ですが、神道世界の全体像から見れば、大八州は所詮、属領であり、天皇はその総督に過ぎません。

 かつて我が帝国政府は
「神国日本は不滅であり、必ず天佑がある」
 と喧伝していましたが、そもそも日本は、いわばタカマガハラ・コモンウェルスの一員以上の立場ではないわけで、それは確かに神国と言えないこともないかもしれないけれど、天照大神を筆頭とする天津神、神道世界の指導的立場にある神々は、依然天上の高天原に住み、首都機能はそこにあるままですから、これを神聖と呼べるのかというと……なんですよねぇ。

 何をもって「神国」であると判断するかは、必然的に非常に曖昧な話にならざるを得ませんが、神道のロジックと照らし合わせて考えるに、やはり、その国が高天原の天津神に従属する存在であるのか、それとも独立した存在であるのか、というのがポイントになると思います。

 現代の日本がどうなのかというのは、それは私には分かりませんがなぁ。


「宝船」本編サイト
「宝船」コラム・概要編
「宝船」コラム・キャラクター編



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 前回に引き続き、「宝船」コラムです。
 先だって予告した通り、二回目の今回はキャラクター編をやります。さてどんな内容になるやら……。
(何を書いてもそうなんですが、私は文章の内容がどのようになるか、実際に書いてみないと全然分からないんです)

 それでは、私は映画が好きなので、映画の話をしましょう。
 今度の「宝船」では、映画やドラマの俳優を基に、そこへ第二次大戦当時らしい装飾を施して、キャラクターを作っています。
 まず主人公の宮古君。
 これは「仁義なき戦い」の広能昌三(菅原文太)がモデルです。

 なんていうかそのまんまですが、「仁義なき戦い」は舞台が終戦直後の呉で、広能自身も特攻崩れらしく、初期は海軍将校の軍服姿で登場するなど、人物以外の影響も顕著に受けています。宮古や児島の話す広島訛りもそうですが、このあたりはうまく出来たかどうか微妙なところ。
 呉の街は私も一度訪れたことがありますが、やはり半日で見て回れるものではなく、呉の海や港、風景の絵コンテは、ほぼ「仁義なき」と「男たちの大和」から仕入れています。あと、横須賀は何度も行ったことがあるので、足りないところは横須賀の絵で埋めたようなところがありますね。


 話が脱線しかけているので元に戻して……。
 小沢治三郎、及川古志郎、そして神重徳の三人についてちょっと触れます。
 この三人は、モデルも何も実在した人物なんですが、やはりそれぞれに一癖も二癖もある人々で、書き手や分野によって、まったく違う人物になったりします。

 架空戦記で例えると、横山信義さんの「ビッグY」に出てくる神大佐と、佐藤大輔の「征途」に出てくる神大佐は、実際には同一人物であるはずだけど、ちょっと別人ですよね。
 史実に実在した人物は、その個人の実際の行動に、作者の解釈が加わって、それで初めてひとつの人格となって舞台に現れてくるわけですので、同じ人間を書いていても、キャラクターとしては別人になる、ということが発生します。
 昭和二〇年春、それぞれ軍令部次長、同総長、聯合艦隊首席参謀という要職にあり、「大和」出撃にあたって最後の決定を下したこの三人は、いわゆる「大和」モノの作品には必ずと言って良いほど出てくる存在で、拙作でもやっぱり登場させました。

 そのキャラクターをどうするかについては、流派によって色々あるので措くとして、今回は東宝映画「連合艦隊」のキャストをベースにしてキャラを作っています。
「連合艦隊」は、当時の邦画俳優のオールスターキャストで作られた映画でして、この三人も、小沢さんは丹波哲郎、及川総長は藤田進、神参謀は佐藤慶と実に錚々たる顔ぶれ。
 つまり、Gメン75そのまんまの小沢長官や、佐藤慶得意の「見るからに悪党」という風貌の神参謀が見られるわけですが、その一方で、藤田進演じる及川総長は、ちょっと異質なところがあります。

 及川総長のキャラは、「連合艦隊」でもやはり、オドオドした性格の人なのですが、それは良いとして、私が「これは変だろ」と思うのは、それを演じているのが藤田進であるというところです。
 藤田進という人は、戦時中の戦意高揚映画「加藤隼戦闘隊」なんかの時代から活躍している大御所でして、アクションスターというわけでもないですが、古武士然とした配役の多い俳優でした。
 要するに、晩年を迎えたかつての大器、なんですね。
 そんな人がこの映画では、「優柔不断といえばこの人!」というような、及川古志郎の役をやっているわけで、私としては
「これはいったい、どういうことなの?」
 と思わず問い詰めたくなるような配役なわけです。
 しかし、一見ミスキャストにも思えるこの配役が、実際に映画になってみると、もう、文句なしにうまい。全然、違和感がないんです。

 私は、及川古志郎とはそういう人物だったんじゃないのかな、と思うんですよ。


「宝船」本編サイト
「宝船」コラム・概要編
「宝船」コラム・八百万の神々と神国日本、そして高天原について



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