革命国家が勝利に向かって前進する玉川上水のブログ

駿河南海軍工廠の後継。近現代史小説を中心に掲載。

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 一九四四年冬、ベルギー上空。断雲の隙間から、黒い影が四つ飛び出した。眼下に広がるアルデンヌの森が美しい。流れるミルクの筋のような、細く曲がりくねった道に、敵の車列。四機のドイツ軍機、Ju87D-1は、たちまち直上に占位する。
「目標視認! 攻撃用意!」
 後席の編隊長、フリードリヒ・フランツ少佐が命じる。前席のパイロットからすかさず、「了解!」と明朗な応答が返った。マイク越しに聞こえたその声は、高く、そして美しい。
 操縦桿を握るのは、ヘンリエッテ・ハンスヨアヒム=シルヴァーナ中尉。独伊混血の若い女性パイロットである。フランツ少佐とはスターリングラード以来の付き合いだ。
「爆撃照準器作動! 投弾用意良し!」
「了解。各機に告ぐ。ノルマンディーのお返しだ。ハンス、ヨハン! ヘンリエッテのケツにしっかりついて来い! ブルーノ、悪いがお前が最先任だ。しんがりは頼む」
『ははは。了解、少佐殿。ヘンリエッテ、隊長を頼むぜ。ハンス、ヨハン、地面にキスするな』
 二番機、ツェーザル・ブルーノ飛曹長の声。ヘンリエッテは慌ててヘッドセットの喉当てマイクに手を当てて、「は、はい!」と応える。
『宜しい。隊長、行きましょう』
「そうするとしよう。ヘンリエッテ、いつも通り、俺の合図で行け。いいな」
「了解です!」
「いい返事だ、行くぞ。ドライ、ツヴァイ、アイン――、ゲーベン!」
 ヘンリエッテはその細腕でスティックを左に倒し、次いで手前に引く。世界がひっくり返り、胃が裏返る。背面になったJu87D-1はその姿勢のまま機首を上げ――つまり、地面にほぼ垂直に立って、急降下。大ドイツ空軍――ルフトヴァッフェの宣伝通り、アドラーの翼のような凶々しい逆ガル翼を閃かせて、緑濃いアルデンヌの森めがけ、一直線に斬り込んで行く。
 速度計の針が狂ったように回転を始め、一方で高度計はそれとは逆向きに全力疾走する。四肢と内臓が重力に強く圧迫され、ヘンリエッテは歯を噛み締めた。現在高度一五〇〇メートル。投弾高度六〇〇まで、あと九〇〇。機速増す。更に増す。突撃、突撃。
 身を苛む重力に抗いながら、ヘンリエッテは爆撃スコープを覗く。狙いは先頭を進むM4イージーエイト。道は一本。これを潰せば、後続は進撃できなくなる。――高度一〇〇〇。八〇〇、七〇〇。
「投下!」
 足元から、ガゴンという音と僅かな振動。南ドイツの基地から抱えてきた五〇〇キロ航空爆弾が機を離れ、慣性の法則にしたがって空中に放り出された。機体が、すっと軽くなる。ヘンリエッテはすぐには引き起こさず、四〇〇まで待って、それから力の限りスティックを引いた。
 マッチ箱ほどの大きさでしかなかった敵の戦車やトラックが急速に巨大になり、何やら大声で叫んでいる米兵の白目まで鮮明に見える。車体上では車載機銃が火を吐いている。あたらない。ヘンリエッテのスツーカは、轟と音を立てて敵の車列すれすれの高度を飛び抜ける。敵の機銃はその動きに追随出来ない。
 振り向くと、爆発。数台の戦車やトラックが吹き飛び、後ろを走っていた歩兵戦闘車が残骸に突っ込む。「命中!」フランツの声。
 そのとき、ヘンリエッテの眼前を弾丸がシュッと掠めた。。前方から銃撃。危ないと直感して、ヘンリエッテは機を右に滑らせる。いままで機が存在していた空間を機関砲弾が突き抜けた。弾が飛んでくる方向に視線を向けると、通常とは趣の違う車両が目に入った。
「ヘンリエッテ、なんだ!」
「対空自走砲、十一時半の方向!」
 フランツは双眼鏡を手にし、椅子を少し傾けて前を見た。見た目は装甲車だが、車台に四門の機関砲が載せられていて、それが猛然と撃っている。そんなのが数台居た。
「ヘンリエッテ、右旋回。かわせ」
「高度が低すぎる。旋回したら墜落します!」
「クソッタレ。各機へ達する。これより敵の火網を突っ切る。最大戦速。高度を上げるな」
 命令を待つまでも無く、ヘンリエッテはスロットルレバーを最大に叩き込んでいる。ユモ211J-1が唸りを上げ、三翅プロペラがベルギーの大気をかき回す。フルスロットル。大口径の機関砲弾が嵐のように視野いっぱいにぶちまけられる。
「燃料の吹き上がりが悪すぎる――」
 質の落ちた燃料のせいで、速度が出ない。ヘンリエッテは苛立った声を漏らす。その時、ミラーの中で後続するハンス准尉の機がぐらついた。そう思ったとき、機のエンジンが爆発し、視界から消えた。くぐもった爆音が響く。次いで四番機。左翼が根元から吹き飛ぶ。
 フランツはヨハンのスツーカが地面に激突して爆発するのを目で追って確認し、歯を噛んだ。四四年の西部戦線は、初陣の兵士にはやはり過酷すぎたのだ。
「隊長、突っ込みます! 伏せてください!」
 ヘンリエッテが叫ぶ。周囲を飛ぶ火線は一段と激しさを増す。ヘンリエッテは夢中で操縦桿を握り締め、機を右に、左にとわずかに振って、弾幕の隙間を突いて行く。
 やがて、砲火が薄くなる。敵機銃の一部が射程外になったのだ。
「ヘンリエッテ、上昇角度二十五度! のち右旋回!」
「了解っ!」
 ここまで来れば大丈夫だろう。フランツは一息ついた。しかし次に響いたヘンリエッテの声が、フランツの一瞬の安堵を消滅させた。
「隊長、ブルーノさんが!」
 フランツは咄嗟に後ろに振り返る。しんがりを務めたブルーノ機は、まだ敵の砲火の中にあった。ただ一機残った二番機に、米軍の機関砲弾が殺到する。
「何だあいつは! 最大戦速と言っただろう、聞いてなかったのか!」
 彼はわざと速度を落とし、後落することで、本来隊長機に向かうはずの敵弾をも引き付けていたのだ。
 ブルーノ機は被弾したのか、よろめくようにして地面に機首を向け、一台の対空自走砲を巻き込んで墜落した。閃光、やや遅れて爆発音。フランツとヘンリエッテには、ただそれを見守ることしか出来なかった。
 アルデンヌの森を貫く小径からは、爆撃と墜落機の挙げる炎が、黒煙を立ち上らせながら燃えていた。空から見るそれは、死者がこの世に残した、未練の火の玉のようだ。
「隊長」
 ヘンリエッテがトーンの落ちた声でフランツに呼びかける。フランツは「わかってる」と頷いた。すぐに戦闘機が来る。燃料も残り少ない。
「帰ろう。ヘンリエッテ」
「はい。隊長」
 針路〇・七・五。来たときと同じように、雲の隙間を縫いながら、慎重に飛ぶ。もうこの空は、敵のものだ。


 飛行場に着いたときには、もう日が暮れていた。基地は灯火管制をしており、探照灯で滑走路を照らしてくれるはずもなかったが、ヘンリエッテは滑走路脇のトーチだけで難なく着陸した。
 風防を開けると、冷たい風が吹き込む。寒い。
 ヘンリエッテはショルダーハーネスを解き、革の飛行帽を取った。納めていた長いブロンドの髪がするりと現れる。ヘンリエッテは機内ライトを点け、後方警戒用のミラーを見ながら手櫛で簡単に髪を整えると、ラダーに足をかけて身軽に機から降りた。
 およそ四時間ぶりの地上だ。四時間と一言に言えば短いが、同じように出撃した六人は、もう二度とこの土を踏むことはない。
 後席のキャノピが開く。ヘンリエッテは手を差し伸べ、フランツが機を降りるのを手伝う。
「ヘンリエッテ。先に指揮所行って飛行長を呼んでおいてくれ。俺は機の状態を調べてから行く」
「わかりました」
 ヘンリエッテは半長靴の踵を返し、掘っ建て小屋のような指揮所に向かった。その後姿を見送ると、フランツは機に向き直り、両手を腰に当てて、険しい顔をした。
「だいぶやられたようですな、少佐殿」
 機付長のディートリヒがいつの間にか隣に居た。
「ああ、三機ともやられた。ブルーノも」
「ふむ。すると、これで黄作戦以来のベテランは少佐殿お一人ということですか。まぁ、他部隊の場合はもっと酷い。少佐殿のような方がいるだけでもマシと考えにゃ。それに、シルヴァーナ中尉も。――少佐殿、これ見てください」
 ディートリヒが機尾を指している。機首に穿たれた弾痕を調べていたフランツは、ディートリヒの言われるまま、機の後ろに回った。そして、背筋が凍った。
「これは――。こんな、バカな」
「垂直安定板が半分吹き飛んでます。驚きましたよ。まさか幽霊じゃないでしょうね、少佐?」
 いや、足はある。フランツは両膝を交互に叩いて見せた。右足は義足だが。
「もういいでしょう、少佐。あとは我々が調べます。消耗機続出で、整備には手の空いてる者が大勢いますから。報告に行ってください」
 フランツは指揮所を見た。ヘンリエッテが大きく手を振っている。
「そうか、悪いな。機のことは頼む。廃棄したほうが早いかもしれんが」
 フランツは庇の付いた紺色の帽子を被り、ディートリヒに背を向けて歩き出した。
「少佐殿」
 するとディートリヒが、しわがれた声でフランツを呼び止めた。フランツ少佐は立ち止まり、しかし振り返らない。
「幸運ってやつは、いずれは尽きるモンだ。こんな戦いを続けていたらヘンリエッテだって、いつかは」
 フランツは帽子を目深に被りなおし、無言でその場を立ち去った。

「報告します。フリードリヒ・フランツ少佐以下八名、ベルギーアルデンヌ方面を進撃中の敵装甲車両部隊を攻撃。敵車両多数を撃破。攻撃中、二番機、三番機、四番機を敵の攻撃により喪失。一九三二時、一番機帰還。以上終わり」
 飛行長の執務室で、フランツはヘンリエッテと並んで報告した。飛行長のヘルツ中佐は机の上で手を組んで、それを聞いた。静かで、しかし鋭い眼を持つ、練達の飛行隊司令官だった。デスクの後ろには、大小の弾痕を穿たれたスピットの主翼が飾られている。
 ヘルツ中佐は中指で眼鏡を上げる。一瞬、レンズが室内灯を反射して白く光る。
「ブルーノはどうした? 奴はただ落とされるような男ではない」
「はい。ブルーノは自ら敵陣上空に留まり、我々の避退を助けて被弾、自爆しました」
「そうか」。ヘルツはアドラーとスワスチカの描かれた葉巻の箱を開け、二人に薦めた。二人とも首を横に振る。ヘルツは葉巻の吸い口を噛み千切り、咥えて火をつけた。紫煙が立ち上る。
「報告は受け取った。退室して宜しい」
 二人は右手を斜めに上げる敬礼をし、ヘルツはそれに通常の挙手の礼で応える。ヘルツが敬礼を解くと、二人は揃って踵を返した。
「フランツ少佐。君は残ってくれたまえ。中尉、君は行っていい」
 ヘンリエッテは怪訝な顔をし、フランツを見上げた。フランツは心配ない、というように眼で合図をする。ヘンリエッテは室から出て行った。
 ヘルツ中佐は棚からボトルと二つのグラスを取り出し、栓を抜いてゆっくりと注いだ。一八八七年産のリースリング。ドイツを代表する白ワインである。フランツはグラスを受け取ると、ヘルツに合わせてグラスを上げ、一気に飲み干した。すっきりとした、爽やかな酸味が口腔に広がる。
「西部で大規模な反攻作戦を行うことが決まった。明日だ」
「反攻作戦?」
 フランツは驚いた。まだドイツにそんな力が残っていたのか。
「作戦名は"Wacht am Rhein"(ラインの護り)。二つの装甲軍を含む、四個軍によって決行される。黄作戦は覚えているな? 戦車でアルデンヌの森を抜け、敵の後背を突く。あれの再現を狙うものだ」
「それは凄い。いつの間にそんな戦力を蓄えていたんです?」
「戦力? そんなものはない。あるのは鉄の棺桶だけだ。制空権は完全に敵の手中にある。燃料は敵から奪う」
 ヘルツはグラスを傾けながら、平素と変わらぬ静かな声音で言った。
「呆れた話ですな。総統は乱心ですか」
「不用意な発言は慎みたまえ、少佐。総統暗殺計画で、親衛隊の連中、頭に来ている。――それで、君の任務だが」
 ヘルツの眼が変わる。フランツは無意識に姿勢を正した。
「ラインの護り作戦に伴い、残存する全航空部隊には、アルデンヌの森の更に向こう、フランス中部まで飛び、敵空軍を撹乱する任が与えられた。君にも参加して貰う」
 それを聞いて、フランツはぽかんとした顔をした。フランス上空の制空権は完全に敵の掌中にある。そんな中に爆撃機を飛び込ませるのは、腕を振り回しながら機関銃の前に歩いていくようなものだ。
「大変結構な話です。戦闘機の援護はあるんでしょうな」
「戦闘機の空中援護はない」。ヘルツはそれを言下に否定した。
「戦闘機はすべて、味方装甲部隊の支援に回される。本来は悪天候を突いて行う予定だったそうだが、このままでは年が明けてしまうからな」
「つまり、われわれは囮ですか。敵の戦闘機を引き付けるための」
「そうだ。だが誰も文句は言えん。“神はわれ等と共にあり”。プロイセン軍人に反逆は許されん。どんな愚かな命令であってもだ」
「しかし」
 フランツは机に手を突き、ヘルツに詰め寄った。
「ヘンリエッテは、違います」
 フランツは、死は怖くない。命は、幼年学校に入学したとき、ドイツ国家と国民に捧げた。家もナポレオンの時代から続く、由緒正しい軍人の家系だ。いつ死んでもいいと思っている。
 しかしヘンリエッテは違う。航空学校を卒業して、それから空軍に徴兵された身だ。ナチスというわけでもない。そして何より、そのような諸々の理屈を超越したところに、フランツの気持ちは向いていた。彼女を死なせてはならないという、何物より強い思いである。
「そうだな」
 ヘルツは呟くように言い、グラスを片手に持って窓辺に立った。両翼の跳ね上がったスツーカの特異な影が、ハンガーに移動するところだった。Ju87D-1を押す数人の中には、すらりとした細身の、ヘンリエッテが居る。
「上には航空神経病と報告しておく。彼女のことは君に任よう」
「ありがとうございます、中佐」
 ヘルツは振り返らない。フランツは軍帽を被り、部屋を出た。


 フランツは兵舎に戻り、報告書を仕上げてから、格納庫に向かった。と、その途中、滑走路の脇に座り込んでいるヘンリエッテの小さな背中が目に入った。黙って夜空を見上げている。いまは十二月であり、寒くて、星を見るような季節ではない。しかしヘンリエッテは軍用のロングコートを羽織って、白い顔を一心に空に向けていた。
「風邪ひくぞ、ヘンリエッテ」
 そう言って、ヘンリエッテの頭に手を乗せる。石鹸の香りがした。「隊長」。振り返ったヘンリエッテの顔には、まだどこか幼さが残る。
「星を見ていたんですよ。ほら、隊長も見てください」
 言われて、フランツも空を見た。ほう、と息が漏れる。全天に煌めく星々の、幻想的な光景。風はない。冷やりとした大気が身体をわずかに刺激する。
 気が重かった。ただペアを解消すると言っても、ヘンリエッテは納得しないだろう。だが一緒に行くことは出来ない。しかしそれを伝えるための言葉が、フランツにはなかった。上官と部下。それだけを持って命ずるのは簡単だった。だが、それでいいのか。フランツは身を焼く思いだった。
 その長い沈黙を、ヘンリエッテが破った。
「私を降ろすんですか? 隊長」
 清水の湧く湖のような、澄んだ声だった。
「なに?」。出し抜けに言ったヘンリエッテに、フランツは戸惑う。「聞いていたのか?」
「いえ。ただ、そろそろそんな時が来るんじゃないか、と思っていました。――やはり、そういうお話だったんですね」
 フランツは俯く。返す言葉がなかった。
「どうしてですか? ずっと二人でやって来たのに、今になって放り出すなんて」
「お前を死なせたくない」
「死なんて怖くありません! 明日もついていきます。明後日も、明々後日もです。隊長!」
「連れていけない!」。執拗に食い下がるヘンリエッテに、フランツは語気荒く言った。ヘンリエッテの肩から力が抜ける。ヘンリエッテは「どうして」ともう一度呟いた。左目の目尻から滴がこぼれる。
「俺は明日死ぬ。明後日や、明々後日はないんだ。お前までが、死ぬことはない。――戦争が終わったら、いい男を見つけて、そして幸せになってくれ。いいな。ヘンリエッテ」
 別離の言葉だった。フランツはそれを告げると、立ち上がり、ヘンリエッテに背を向けた。言うことは言った。これで良い。だが、なぜだか胸が痛んだ。別れを告げて、そして去っていく。その、胸の痛み。それが何なのか、フランツには理解できなかった。何か途方も無く大事なものを、失くしたような気がしたのだ。
 その時背後で、ヘンリエッテがゆっくり立ち上がった。
「私は――私は、死など怖くない。そこに全身を苛むいかなる苦痛があるとしても、髪の毛一本残すことなく、原始の無に帰すとしても、私は一向に構わない。ただ――ただ私のすぐ傍らに、あなたの澄み切った魂があるのなら、それだけが唯一、私の幸せです」
 音を立てて、風が舞った。フランツは振り返り――振り返って、ヘンリエッテの翡翠の瞳を見た。
「だから、どうか死ぬなどと言わないでください。私を置いていくのなら、約束してください。どんな辛酸を舐め、悪魔に身をやつし、乞食となっても、必ず、私の元に帰ってくると。私に生きろというならば、あなたにも生きてもらいます。隊長、どんな苦しみがあっても、死に逃げず生き抜くと、私の命に誓って、約束できますか?」
 フランツは無言で、その場に立ち尽くした。ヘンリエッテは口を引き結んで、じっとフランツを見ている。
 人一人が死んで解決するものなど、些細なことでしかない。ヘンリエッテは、自分の命をそんな瑣末なものとはしたくなかった。『私の人生に指図するなら、この世の地獄とも思える困難を越えて、それでも生きて帰って来い』。ヘンリエッテはそう言ったのだ。
 フランツは被っていた軍帽を捨て、ヘンリエッテに歩み寄った。そしてヘンリエッテの前まで来ると、夜露に濡れた草原に跪き、彼女の白い手を取った。フランツはその手の甲に、そっと口付けする。
「約束しよう、ヘンリエッテ。お前とのあいだに、如何に巨大な障壁があろうとも、必ずお前の元へ帰ってみせる。十年、百年、千年の時を要しても。俺が帰るその日まで――待っていてくれるか、ヘンリエッテ」
 ヘンリエッテはフランツを立たせ、両腕を握り、涙を溜めた目で微笑んだ。
「それが那由他のかなたでも、あなたの帰りを待っています」
 フランツはヘンリエッテを抱き寄せ、そっと抱きしめた。いとおしい。その気持ちを、彼は知った。常に軍隊が共にあった人生の中で、フランツは初めて、生きることを願った。
 ――翌朝早く、フリードリヒ・フランツ少佐のJu87D-1は基地を発ち、そして帰還することはなかった。
 五ヵ月後、一九四五年四月。ベルリン陥落。ヒトラー総統は自決し、六年にわたるドイツとゲルマン民族の闘争は終わった。瓦礫と屍の山、そして対立を世界に残して。
 ヘンリエッテ・ハンスヨアヒム・シルヴァーナは大尉で終戦を迎え、生まれ育ったイタリアには帰らず、ベルリンに移り住んだ。
 資本主義と共産主義。決して混じり合うことのない両者の緩衝材となっていたドイツの消滅は、東西の直接的対立を生み、そしてベルリンは、その中心地となった。ベルリンは東西両陣営によって分断され、市民の通行は厳しく制限された。
 歴史という大河の中で、ドイツは揺れ動いていく。ベルリン封鎖があり、東西ドイツの分離独立があった。そしてベルリンの壁が造られ、東西間の通行は不可能となった。そのときヘンリエッテは、壁の東側に居た。
 彼女は今でも待っている。ドイツを東西に引き裂く鉄のカーテンの向こう、アルデンヌの森を越えた先。その空に消えた、男の帰りを。
 男が去ってから四十三年が経ち、ヘンリエッテは六十七歳になっていた。そんな、ある日のことである。
 東西ドイツの通行が自由化される、という噂が流れた。


「下がれというのが分からんのか! 下がれ! やめろ!」
 一九八九年、十一月九日の夜。噂を聞いて国境の検問へ行くと、警備する東ドイツ軍兵士と、ゲートの開放を求める群集とが、激しく揉み合っていた。機関銃で武装する兵士は、しかし今や東ベルリンの至るところから国境に殺到してくる市民を抑えられない。
 ヘンリエッテは少し離れたところから、その喧騒を眺めていた。長い年月で身体は衰えたが、それでも両の目の輝きは、四十三年前と変わらない。
 群集の後ろで、クラクションが鳴った。運送会社のロゴが描かれた中型トラックである。もう一度、クラクション。群集は左右によけて、トラックの前を開ける。唸りを上げて、トラックが検問に突っ込んだ。ゲートは跡形も無く吹き飛ばされ、群集は歓声を上げて検問の向こうに飛び出していく。
「待て、止まれ! 貴様たち、党に逆らうのか!」
 AK-47を振り回して兵士がわめく。すると一人の若者が兵士を殴り飛ばし、それに数人が加わって彼を袋叩きにした。
 人々の流れに乗って、ヘンリエッテも検問を超えた。目の前には、重い鉛色をした巨大な壁がそびえていた。人々はそれを見上げて、息を呑む。すると壁の向こう側――西ベルリンから、壁を叩く音がした。壁を壊そうとしているのだ。
「そうか。よし、やってやろうじゃないか! おい、つるはしを持ってこい! カッターもだ!」
 建築現場から、商店から、家庭から。およそ物を壊すためのありとあらゆるものが運び込まれてきた。人々はそれらを手にとって、ベルリンを分かつ巨大なコンクリートの壁に、いや、東西ドイツの分断と対立の歴史に、立ち向かった。
「ほらおばあちゃん、これ」
 髪を三つ編みにした少女がつるはしを差し出した。ヘンリエッテはそれを受け取る。少女が微笑むと、ヘンリエッテもつられて笑った。
「せーの!」
 少女と声を合わせて、つるはしを壁に打ちつける。数十万にのぼる「ベルリン市民」の手で、壁は時間をかけて、少しずつ壊れていく。男たちは壁に梯子をかけ、壁の上から破壊の指揮をした。
 カッターが唸りを上げる。そして、轟然たる音が響いた。壁は切り崩された。壁の先には、西側の世界が広がっている。
 東ベルリンの市民はそこから西になだれ込む。興奮した声が上がり、東西ベルリンの市民は抱き合って喜びをわかちあった。
 ヘンリエッテは、しかし西へは行かず、少女と別れ、その場で待った。人々の喧騒が爆発的に高まる中で、一人、じっと待っていた。
 壁の影から、一人の男が姿を見せた。古ぼけた紺の軍帽を斜めに被り、ところどころにほつれが見える軍用コートを羽織った、長身の老人。肩で風を切り、颯爽として歩いてくる。老人は、ヘンリエッテの皺になった手を取って、そっと口付けした。そして、言った。
「ついて来い、ヘンリエッテ」
 紛れも無い、フランツの声。ヘンリエッテは満面の笑顔で、これに応えた。
「はい、隊長」
 花火が挙がる。人々の歓声を背にして、二人はゆっくりと歩き出した。

コメント


 構想一分、執筆二日。
 久々の高速執筆でした。内容は兎も角、書いてるときは楽しかったです。スツーカ大好きなんで。
 元ネタは言うまでもなく、アニメ映画の「ユンカース・カムヒア」です。
 ユンカースと銘打ってますが、イヌの名前が「ユンカース」っていうだけで、スツーカのスの字もないアニメなんですが、タイトルがタイトルなんで、同作品とJu87をかけてるジョークとかコラ画像は腐るほどあります。
 でも漫画や小説ではなかったんで、ないならやってみよう、というわけで。……よく考えたら、元ネタを最初に決めてから書いたのは初めてのような気もするなぁ。
 ただ問題なのは、私は原作を読んだこともなければ、アニメも見てない、ということなんですが。
2006/09/05 20:33URL  早池峰 #w1X/gZh6[ 編集]


この記事に対するコメントの投稿



*ようこそ、トラブルシューター。*

Computer:
 このコメントフォームに「/」を重ねて書くことは反逆です。
 URL欄にアドレスを入れる者は、恐らく反逆者以外にはいません。

 市民の幸福は、コメントを書き、Computer に奉仕することです。
 あなたはComputer の仕事に感謝して、喜んでコメントを書きますね?
 そうしないことは反逆です! 直ちに処刑の対象になります!!
 
















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