革命国家が勝利に向かって前進する玉川上水のブログ

駿河南海軍工廠の後継。近現代史小説を中心に掲載。

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 昭和十八年。その頃すでに世界の強国の間では、それぞれの国の名だたる核物理学者たちが動員され、原子爆弾開発を進めていた。この新型爆弾は旧来の通常爆弾とは異なる圧倒的破壊力を特徴とし、新型爆弾一発は大都市ひとつを灰燼に帰するほどの凄まじい威力を秘めている。それは戦争の形態そのものに対して、革命的変化を要求するものであった。

 極東の日本でもまた、理化学研究所の仁科博士を中心に、原子兵器に関する研究が開始され、陸軍ではこれを「ニ号研究」と称した。仁科博士ら日本の核物理学者は、こうして原子研究の難題に着手したわけであるが、彼らの採用した原子爆弾製造法は、一般的な遠心分離法ではなく、熱拡散法によって天然ウラン中のウラン235を濃縮する方式であった。しかも彼らの研究は理論段階で問題があったため、非常に効率が悪く、その開発は特に時間を要するものとなった。

 時の総理大臣・東條英機は、原子兵器研究に対し関心を抱き、ある日仁科博士に訊ねた。
「我が国の原子研究は、どれほど遅れているのかね」
 仁科は東條に答えた。
「まぁ、十年というところかと」
 それから十年が経過したある日、朝永振一郎がやって来て仁科に訊ねた。
「先生。アメリカもソ連も、原爆を保有してしまいました。核はいつ出来るんですか」
 仁科は朝永に答えた。
「あと二〇年はかかると思う」
 それから二〇年が経ち、米ソどころか中国・インドまで核開発に成功、仁科はすでに故人となっていた。その墓へ湯川秀樹がやって来て、墓石をがたがた揺さぶった。
「先生! 原子爆弾はいつ出来るんです。原爆は、原爆は」
 そのとき天の彼方から仁科の声が、おごそかに響き渡った。
「四〇年くらいかな」
 それから四〇年後、記憶装置に移された仁科の電脳は、核戦争で荒廃し暗黒時代を迎えた人々のアクセスに応じ、彼らに言った。
「我々と原子爆弾の間には、およそ八〇年の隔たりが――」





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